高度情報化社会がもたらすもの 2007年11月13日

この二十年余り私が記憶しているかぎり私の小学生の時代はまだ昭和であり、身の回りにあふれているものはアナログ一色。流行の廃りはやりはあるにせよ、基本的な社会のシステムについては大人も子供のそうギャップがなく共有できていた時代のように思います。

時代が進むにつれてパソコンが登場し、インターネット・携帯電話が普及し私たちの皮膚感覚では捉えきれない早さで進化を続けている。便利になることで、人々は知的創造活動に費やす時間がおおくなり、より豊かな生活を営むことができる…。

こんな文句をどこかで見たことがあります。実際便利になり、一人の人間が共有できる情報量というのはちょっと前に比べて比較にならないほど多くなりましたし、事実弁rになりつつあるのはいうまでも在りません。では人々はより豊かな暮らしをしているのかと言うと、そうでも内容に思うのです。

そんな思いをずっと抱いていましたが、そんなことを話題にした記事を産経新聞の電子版で見つけました。【溶け行く日本人】のシリーズ快適の代償(1)待てない人々というコラム。私個人は携帯電話がそれほどすきではないので身に付けていても重要でなければ基本的に後回しどちらかと言うと電話重視でメールはほとんどと言う感じです。まあ現代腎っぽくないのかもしれませんが。

記事で驚いたのは、メールの返信が5分と待てない人や、小中学生で15分以内に返信しないと友達じゃないという感覚。あるビジネスパーソン対象の調査によると、「待ち時間」について、通勤電車の遅れが5分でイライラするという人は10年前で18%弱で現在派57%弱と言う。日本人は極端にせっかちになっているようなのです。

「待つ」ということは本来当たり前のこと。自らが世界の中心でないのだから、相手の都合もあって初めて社会が成り立つことを考えれば多少の「待ち」は想定内のことだと思うのです。それは仕事のみならず、プライベートの遊びだったり、はたまた教育だったり広範囲について待てなくなっているようなのです。

社会全体として待たせないサービスを重きをおいて、その方向に向かって次々と進化している。それはそれでいい事なのかも知れませんが、そのお陰で待つことに対して我慢ができなくなっている。それは先ほどあげた豊かな生活を営んでいるというのかどうか…。

先の調査によると待ち時間のリミットは次のようなものだそうです。総合病院30分、通勤電車の遅れ5分、スーパー・コンビニのレジ3分、パソコンの起動1分、インターネットの開始10秒。皆さんはどうですかね?個人的にはどれも当てはまらないというか元来がのんびりやな物だからかも知れませんが。

ゆっくりした時を過ごす。待たされることや待つことを自然と受け流すことができる心のゆとりをもつというのが人間にとっては必要なのだと思うのですが…。この先どんどん速度が増していく情報化社会になると一体どういうことになるんでしょうかね?ちょっと怖くなってしまいます。

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